それは僕自身、音楽は詰まるところ個人の趣味思考でしかないと
考えているからで、自分にとって心地よいもの、好ましいものを
聴きたいように聴けばいいし歌いたかったら歌えばいいと思って
いるからだ。
『音楽にはニ種類しかない。いい音楽とそれ以外だ』
というデューク・エリントンの有名な言葉がある。
Sir Dukeが言ってるんだから間違いない。
しかし頷いてはみるものの、いい音楽だと思い込んでいたものが
実はそれ以外だったり、悪いものと知りつつ、ついつい手を出し
てしまうなんてことも実は往々にしてある事だ。
前者の場合は幼さから、後者の場合は音楽以外の関心によるとこ
ろが大きい。
知識も経験も乏しく、かつ比較対象物が限られている場合、
そこでは目の前にあるもの、与えられたものが全てであり、
それが良いものとされればそれを疑う余地などない。
幼さと書いたが、これは単に年齢的なことではなく成熟して
いないという意味でもある。
僕が十代の頃(80年代真っただ中)はニューミュージックと言
われる音楽が出初めで、テレビのベストテンやトップテンから
流れてくるヒット曲の影響力はもの凄く(なんせ”ニュー”だもの)
昼休み、音楽室にあるガットギターを取り合い、雑誌の付録の
歌本を回し読みし、Fは跳ばしつつちょっとずつコードを覚え、
弾けるようになったらギターの奪い合いをしてた連中といっしょ
に歌い…そこにはいいも悪いもなく、ただただ音に触れることが
楽しくてしょうがないといった少しばかし熱に浮かされた状態で、
その頃の僕にとって音楽はまだ一種類でしかなかった。
後者の音楽以外の関心とは、ほぼ性的な関心事であり、そこでは
音楽は二次的なもので、音楽はその対象と自分自身を繋ぐひとつ
のツールに過ぎない。この場合、曲の善し悪し、歌や踊りの上手
い下手は関係はなく、口をただパクパク動かしてさえいればそれで
良い。そしてこの種の音楽は人間の生理に起因しているものなので
決して無くなる事はない。
どの時代にもジャニーズやAKB的なアイドルは存在する。
ちなみに僕は桜田淳子から松田聖子へという王道を歩んだ。
人によってはアグネス・チャンから三原順子というような全く理解
不能、もはや既に大人の階段を転がり落ちてる様な同級生もいた。
では「いい音楽」という定義はというと未だによくわからない。
ベストテン観ながら洋楽の洗礼も受けた。
松田聖子聴きながらブルースにハマった。
コッキーポップ聴きながらウルフマンジャック・ショーをエアチェ
ックした。混在していた。取りあえず何でもかんでも手を出した。
たぶんあの頃好き嫌いなどなかった。取りあえず喰ってみた。
善し悪しなど分からなかったのだ。
ビートルズもストーンズも未だによく聴くがニューミュージック
は聴かない。たまに松田聖子をCMで見かけるが何も感じない。
歌番組は観ないがピーター・バラカンの番組は聴く。
定義と言えるかどうかは分からないが、淘汰され残ったものが
“いい音楽”なのだろう。
ということはある程度の「量」は必要だということだ。
“それ以外”のものを聴かなければ”いい音楽”を知ることにはなら
ないってことか。毒も食らわば皿まで、ん?ちょっと違うか。
隣の部屋で娘がきゃりーぱみゅぱみゅのCDを聴いている。
彼女にとって今夢中になれる音楽がきゃりーぱみゅぱみゅ。
いつか淘汰され、彼女の中に残ればきっとこれが彼女にとって
の”いい音楽”になるのだ。
案外好きなんだよね、ぱみゅぱみゅ(文字には書けるが言えて
ない…)。